創業120年を迎えて
往時、“鯉こく”や“鯉のあらい”といった料理は料亭あるいは旅館での定番メニューだったが、今では一部の美食家らに好まれる料理になってしまった。
そのコイを専門に埼玉県内の料亭などに卸していたのが今年で創業120年を迎える鯉平。
かつては埼玉県内に数軒あった同業も、今では料理屋に転業するなどしたため、鯉平が県内では唯一の川魚卸問屋となった。
創業したのは清水平八で、蓮田市閏戸の出身。1875年(明治8年)に生まれた平八は、農家の次男だったため、長じてコイやウナギ、ドジョウ、ナマズなどの川魚を扱う『鮒又』という卸問屋に奉公に出た。
鮒又では、河川や田圃で漁師や農家の人々が捕ってきた川魚を買い入れ、近辺の料理屋に卸していたが、平八はその配達を受け持っていたという。
当時の料亭や料理屋で出す食事は川魚が中心で、しかも養殖されたものはなくすべて天然物。川魚は活きている状態で包丁を入れなければならないことから保存管理が大変で、このことは今の時代も変わらないでいる。
平八は、川魚を天秤棒で担ぐか荷車に乗せて近辺の料理屋に納めていたが、そのうちの一軒に、中山道大宮宿、現在のJRさいたま新都心駅近くで料理屋を営んでいた『叶屋』の主人にその働きぶりが認められ、ある時「娘の以とを嫁に貰ってくれたなら土地を分け与えるが、どうか?」と申し込まれた。平八は有り難くその誘いを承諾、氷川神社参道の一の鳥居脇、今は旧本社ビルになっている土地を貰い受けて、鮒又と同じように川魚活魚の卸問屋を創業した。1897年(明治30年)のことである。平八28歳の時だった。
以との父親は当時、旧中山道界隈にかなりの土地を所有する一方、○印の中に叶という字を入れた屋号の料理屋を営み、繁盛していたという。
毎日、天秤棒を担いで川魚を納めに来る平八に、娘と土地を差し出すぐらいの惚れ込みようだから、平八は相当の働き者だったのだろう。
一の鳥居脇で開業した平八は、義父と同じ屋号で川魚を販売するが、コイを扱う量が多かったために、近隣住民から「鯉屋の平八さん」とか「コイに恋した平八さん」と親しみ呼ばれ、いつしか呼び名が「鯉平さん」に縮まり、それが現在の社名となった。
平八はまた、実直堅実な人物だったらしく利益は貯蓄に回す一方で、売りに出された家作を次から次へと購入。
大正から昭和の初めにかけてはかなりの家賃収入も得ていた。
もっとも、こうした土地家屋は戦後の土地行政施策によって没収されている。
平八はその後、長寿を全うし1965年に88歳の米寿で他界した。
2代目を継いだのが重雄で、1908年(明治41年)の生まれ。
家業はそれまでのコイに加えドジョウも扱うようになり、新潟方面から共同で仕入れ、貨車で運ばれてきたドジョウを国鉄大宮駅まで受け取りに行き、得意先に卸していた。
その後、扱いの主力が養殖ウナギへと変貌していくが、時代は日中戦争から太平洋戦争へと悲惨な状況へと突き進む。
経営も同時に停滞するが、先を見通す目が鋭かったことで、苦難の時代を乗り切り家業を守り続けた。しかし、身体にはあまり恵まれなかったようで、戦時中に神経が麻痺する病を患い、戦後間もなく今度は足を悪くしたため家業を3代目晃に譲ることになる。
1933年(昭和8年)生まれの晃は、学生時代から家業を手伝っていたものの、当時は公認会計士か税理士を目指していた。重雄の体が不自由になったことで、夢を諦め家業を引き継ぐことにしたが、事業を継承することにはかなりの抵抗感があったと言う。
母に口説かれて、先祖が作り上げたものを守っていこうと仕方なく受け継いだと振り返る。だが、時代は高度経済成長期へと移行、嫌々ながらも晃は代々受け継いだ商人気質を遺憾なく発揮して、その上げ潮に乗って鯉平を再生し、そして飛躍させた。
もちろん、業容の拡大には大きな苦労や障害があり、辛酸をなめながらにしての結果である。
晃が事業を受け継いだ頃から、天然物の川魚は激減し、代わって養殖ウナギを扱う量が増加しだしたが、その理由は人口の増加と都市化の進展に伴うウナギ屋の開店だった。
町中にウナギ屋が次々と開業、鯉平の扱う川魚も、コイとドジョウから、ウナギへと軸足を移したが、困ったことに養殖ウナギを直接仕入れるルートを持っていなかったのである。
埼玉県内の料亭や料理屋、ウナギ屋に卸す養殖ウナギの問屋は、すべてと言っていいほど東京・千住の問屋が仲間相場で埼玉県内の市場を牛耳っていた。
晃が家業を受け継いだ1956年(昭和31年)には、既に千住は養殖ウナギ問屋のメッカと言われるほど隆盛で、県内の川魚問屋は鯉平も含めて千住の問屋から養殖ウナギを卸して貰い、それを県内の得意先に卸すいわば二次問屋の立場に置かれ、商売をするにはかなり不利な状況に置かれていた。
それを打開することができたのが、妻を娶ってからのこと。たまたま新妻の実家が浦和の乾物屋を営み、商品の削り節を静岡県焼津の大手問屋から仕入れていたことから、そのツテを頼って直接、晃が焼津に出向き養殖ウナギの卸問屋を自ら開拓した。
その結果、千住の問屋とは取引を中止したが、焼津から直接仕入れていることに対して千住の問屋からは様々な嫌がらせや圧力を受けたと言う。
仕入れルートはその後、静岡県焼津・浜名湖から愛知県豊橋、そして三河方面へと拡大したが、当時は竹で編んだザルに養殖ウナギを入れ、その上に氷を載せて貨物で輸送。晃は毎日、東京の汐留駅まで電車に乗って引き取りに行く重労働を強いられた。
しかし、体力的な苦労よりも一番きつかったのは「経営的なことだった」と晃は今振り返る。
産地の問屋からの信用と実績を勝ち取るために、ウナギの需要シーズンに関係なく一定量を一定額で常に購入していたため、シーズン以外では買い取った価格以下で県内の料亭などに卸すことになり、「幾度となく大損をした」と言う。
ウナギは夏の需要期に価格が高くなり、秋になると販売量が落ち込み安くなるからで、損を覚悟で将来のことを考えて常に大量の養殖ウナギを産地から購入し続けた。
その結果、産地問屋からの信用を見事に獲得、品薄の状態になっても優先的に卸元から供給されるようになり、県内のウナギを扱う店からは『鯉平なら、いつどんなときでも供給してくれる』との評判が立ち、事業に大きなプラスとなったと言う。
晃は養殖産地ルートの開拓だけでなく、事業拡大のためにあらゆる対策を講じている。その一つが公設市場への進出だ。高度成長とともに地方でも生鮮食料品を扱う市場が次々と開設されるようになり、埼玉県内でも浦和や上尾、大宮、越谷など各地に公設市場がオープン。晃は市場が開かれる場所ごとに鯉平の営業所を開設して近辺の料理屋など新規取引先を開拓していった。
まだまだ千住の卸問屋との競争が激しい時代で、そうなると価格勝負となるが、晃は敢えて他の問屋よりも安くした。
当時の卸価格は仕入れ値にキロ当たり500円を上乗せした金額だったが、晃は300円で十分に採算はとれると計算して販売。
その読みが当たり納入先を次々と増やすことに成功したが、千住の問屋からの反発は相当のものだった。
嫌われ文句を言われながらもキロ300円の上乗せ価格を維持し続け、最終的にはこの上乗せ卸単価が“鯉平相場”として確立し、その価格に付いていけない問屋は千住の問屋を含めて競争から脱落していったと言う。“鯉平相場”を定着させることができたのは、後にも先にも自ら開拓した産地問屋との強い絆があったからだ。
川魚は活きていないと商品とはならず、死んでしまったら大損になる。
創業地の氷川参道一の鳥居前にある旧社屋には常に水を入れ替えるために井戸を掘り、汲み上げていたが、井戸は最低でも2本は必要で、その井戸掘りへの投資も大きな負担だった。
晃は「井戸から汲み上げて水槽に流し込む水の音で育った」と話し、その音が途絶えることに恐怖感を持っていたと言う。
水の音が途絶えれば、川魚にとっては危機的な状態で、死んでしまえば1,000万円単位で大損するから経営にとっても危機となる。
生きた魚を管理することは24時間365日目が離せないため、家族旅行などもできないほどで、その苦労が忍ばれる。
4代目良朗もその水の音を聞きながら育った。
大学を卒業後、医療器械関係の仕事に従事していたが、3年ほど過ぎてから家業を継ぐために鯉平に入社。
一から商売のイロハを学ぶことになった。
入社してしばらくは好景気の良き時代だった。
しかし、バブル崩壊後の失われた10年と言われた時代に家業をバトンタッチされたため経営状況は芳しくなく、経営を立て直すため大胆な施策に出なければならなかった。
悩みに悩んでまず手掛けたのが前線基地からの撤退だった。
それまで開設してきた公設市場内の営業店舗を閉めることから始めたが、特に留意したのが「一軒たりとも得意先を逃がさないことだった」と良朗は話す。
単純に拠点を閉鎖していけば既存得意先が逃げてしまうが、逃がさないために、以前と変わらぬ配送時間・商品の品質・サービスを徹底しなければならない。
その為の物流システムの構築と社員の意識改革を実現させながら、浦和・越谷・鶴ヶ島・上尾・熊谷・大宮の営業拠点を次々と閉鎖、本社からの集中配送に成功して今日に至っている。
営業所の撤退は、コスト負担を極力無くすための苦肉の策だったが、当時は負け戦の時の“殿軍”を任された戦国武将の心境だったと言う。
「この撤退作業を父にはさせたくないと思った。」と良朗は言う。
「なぜなら、父にとって手塩にかけて開設してきた各地の営業所は本人にとって子供みたいなものだから」と。
ちなみに、公設市場の営業所撤退に当たっては、せっかく掘った井戸を埋めていく悲しい作業を伴った。
井戸をそのまま残せば余計な費用を負担しないで済むものだが、残しておけば次の卸業者がそのまま使ってしまうから」だと話す。
ところで、営業所の閉鎖で一番感じたことは「得意先との関係だった」と良朗は後に語っている。
事業の大幅な縮小も考えたが、「得意先との信頼関係や埼玉の人々が食する川魚を供給していく社会的役割を考えると、勝手に事業の縮小はできない」と思ったそうだ。
同時に、企業が社会的責任を果たすことが「事業の継続につながるということだと分かった」と言う。
ただ、「企業は古ければよいということでもない」とも。
真意は「老舗だとか歴史があることを自慢してはならない」という所にあり、自ら戒め敢えて歴史の長さを前面に押し出さないようにしている。
もちろん、3代目晃が「100年以上も暖簾を守ってきたことに誇りを持ち、老舗であると自負している」との言葉には異論はなく、「“生き残っていくのだ”という信念を持っていることが必要だ」と強調する。
“生き残ること”、その気持ちを強くしたのが営業所の閉鎖だったが、さらに4代目に試練が待ち構えていた。
撤退作業で一段落した後、氷川参道一の鳥居前の旧社屋から移転を余儀なくされ、2003年にさいたま市見沼区の卸団地に移転するが、移転後にその次なる経営危機に直面する。
移転は、さいたま新都心開発に伴って、100年近く涸れることがなかった井戸から水を汲み上げることができなくなることが判明したことによる。
川魚料理を扱う飲食店の県内分布状況などのマーケットリサーチから卸団地が最も適正地と決め、父親に移転を強く進言して実現させた。
移転後、直接消費者に接することができない卸業の限界を身に染みて感じていた良朗は、それならば「ウナギ屋の直営店を開店すればよい」と考え、父に相談。
しかし、父は意に反して「卸問屋だから駄目だ」と強硬に反対、「得意先の隣で同じウナギ屋を開店すればどう思われるか考えてみろ」と言われた。
卸問屋として卸先との関係を大事にしている晃は、いわば仁義に反する気持ちから直営店の開店に反対したのである。
「だったら埼玉県内ではなく、東京ならいいだろう」再度提案したが、それでも「駄目だ」と言われ、最終的には良朗の独断で別会社を立ち上げ、直営店“まんまる”を東京・池袋に開店、強行突破を図った。
“まんまる”という屋号は、相場の利害関係からウナギの生産者とウナギ屋との仲が悪い業界内で、卸問屋が中に入ってまん丸く、川上も川下もまん丸くなってほしいとの願いが込められている。
池袋店の開店は成功したものの、これが後に大きな落とし穴となった。
多店舗展開を模索した良朗は、次の候補地として何故か遠く北海道は札幌の地を選択、しかも1店舗ではなく2店舗同時に出店したのである。
「札幌の人はウナギを食べなかった」と自ら言うほど、その無謀な出店は見事に失敗するが、「何で札幌なんかに出店したのだろうと後悔する一方で、社長という立場が自分の心に慢心を起こさせたのだろう」と振り返る。
父親に一切相談しなかったことから、当然大叱責されるが後の祭り。
残ったのは鯉平に多大な損害を与えたことによる資金繰りの悪化で、立ち直ることが難しい状況に追い込まれた。
難局打開のため、過去の決算内容を洗い出して新たな銀行融資で組み替えを行い、自らの報酬を半減しただけでなく、社員の給与も2割カットして乗り切ることにしたが、2004年8月にはとうとう支払いに滞る最悪の状態になってしまった。
産地問屋は決済サイトが短く、どうしても資金繰りが付かないことに直面したが、運良く支払先の1社が1ヶ月間の猶予を申し出てくれた。
その1社のおかげで資金繰りが何とか解決し九死に一生を得ることになったが、その時「それまで父親の信用で事業を行っていたことや、給与カットでも社員は離れず付いてきてくれたことに心から感謝した」と話す。
危機を乗り越えた瞬間、良朗は「社員を信じて任せることを学び、自分もこれで名実ともに社長になることができ、良い会社になったと実感した」と言う。
同時に、経営改革で取り組んだ“月次決算”の重要性を認識し、「危機的状況の中での大きな収穫だった。“月次決算”を導入してからわずか1年で経営状況が好転し、完全に立ち直ったのだから」と現在も続けている。
“まんまる”はその後、鯉平本体に吸収され、現在は1号店の池袋と2号店の新橋、創業地の旧本社社屋1階では“かのうや”、更に東北自動車道羽生PAに“忠八”を出店。
過去の苦い経験を生かして慎重に店舗展開を計画していくという。
鯉平はその名の通り現在でもコイを販売しているが、2004年11月に霞ヶ浦で発生したコイヘルペスの影響で売上が激減した。
それ以前から、品質の悪い養殖コイが市場に出回り、泥臭い小骨が多いという悪いイメージが定着したことで売上は漸減していた。
しかし、ヘルペス事件を機に仕入れは品質の良い群馬県産に絞り、地道なPR活動をしたため、売上は微増傾向になってきた。
直営店で新しい鯉料理を開発し女性に鯉の魅力を伝えるイメージアップ作戦を展開中である。
鯉平の売上の90%は養殖ウナギで占められている。
良朗は「いろいろな産地を確保していないと多様化する取引先のニーズ、要望に応えられず安定的に確保できない」と言う。
それだけに供給元の確保に神経を使っているが、国内だけでは供給に不足することから季節によって台湾産や中国産も一部購入している。
ピーク時に年間扱い量1,000トンを誇ったが、バブル崩壊後は毎年5%単位で落ち始め、今では半分の500トンで推移している。
しかし埼玉県内でのシェア率は卸先数、数量ベースでも65%維持し、消費地問屋としては国内随一。
しかも、最大の特徴は、良朗の代になって始めたトレーサビリティー(生産履歴)の導入で、すべての伝票に生産地や生産者を記入、料亭や料理屋、ウナギ屋が嗜好に合わせて注文できるようにした。
その結果、生産地を指定して注文するケースが増え、売り上げに大きく貢献している。
更に近年特徴的なのは、慢性的な職人不足によりOEMによる加工の注文が増えていることで、このことが増収増益に大きく貢献していると分析している。
数多くの苦難を乗り越えてきた4代目良朗は言う。
「企業の立場からすると、常に変化する経済情勢を先読みしながらその時々の状況にあった経営でなければ生き残っていけない。高度成長時代の時は供給場所を確保して売ることに専念すればよく、やり遂げた企業が生き残ってきた」と。
しかし、時代は人口の減少に象徴されるように、縮小化へと向かっている。
「生き残っていくためには何が必要かと問われれば、環境に順応した経営を基本に“月次決算”の実行と顧客サービスの充実で、この時代だからこそやるべきことは多い」と話す。
「近い将来、養殖事業・卸売事業・飲食小売事業の6次産業化を推し進め、川上から川下までを網羅するコアコンピタンス企業を完成させて次代に譲りたい」良朗の目標はすでに80年先の創業200年に定められているようだ。
(文中敬称略)